(心の病は特別なことじゃない)常識を疑うと近道が見える
こんにちは。今日もブログをご覧くださりありがとうございます。
最近は児童虐待や警察署での発砲事件、スポーツでの悪質ファールの問題等々の他人を害する悪いニュースが続いていますね。自分で自分を傷つけるのもいいことではありませんが、他人を傷つけてしまうのはもっといいことではありませんね。
ぼくは最近、ようやく自分で自分を傷つける思考や日常生活から脱却しつつあります。日常を改め、規則正しい生活をし、毎日自分に与えられた時間を大切に生き始めています。心からそう思い始めてまだ3ヶ月に満たない程度ですが、以前に比べると自分を労わることも、他人を敬うことも、感謝の心も多くなっている一日を過ごしています。
皆さんは、いま毎日をどうお過ごしでしょうか?悶々とした一日を過ごしておいででしょうか?少し元気な、躁な一日でしたでしょうか?苦しくて苦しくて辛いうつな一日でしたか?どんな一日であったとしても、他人を傷つけていないのでしたら、その時点で自分を認めてあげて下さい。
そんなの当たり前じゃん。
他人に迷惑かけて楽しむ趣味は元々ねーし。
そんなことで自分を認めるのはハードル低すぎる。
そう思いますよね。ぼくもそう思っていました。確かに今までの自分にとってはハードルが低い褒めポイント。それが当たり前と思って今まで生活してきて、実際に行動もできてきた。『自分にとってのあたり前』ですから、それをいちいち認めるも何もないのが普通です。でもそこがポイントです。
今までの当たり前を否定することから始める
ぼくが今、当時一番苦しんでいた自分に対してアドバイスができるならきっとそう伝えます。
あたり前のハードルを下げなさい
出来てあたり前を一度否定しなさい
自分と他人の当たり前を分けなさい
感謝する・されるのがあたり前ではありません
あたり前のハードルを下げることは、幸せを感じやすくなります。できてあたり前を否定すると、できなくてあたり前に変わります。自分と他人を切り分けると、軸がブレなくなります。感謝しない・されない前提でいると、感謝できることがたくさんあることに気付けます。
「人に迷惑をかけるんじゃない」と言われて育った子供には、迷惑をかけないことがあたり前。毎日家族全員でご飯が食べる家庭で育った人は、家族でご飯を食べるのがあたり前。体調が悪くてもリゲイン飲んで会社にいくお父さんを見てきた人にとっては、有給があっても会社を休まないのがあたり前。でも、それがあたり前じゃない人もたくさん居る。自分が話したことのない全くの他人が、あたり前だと思っている常識がぼくと違っていても、いちいち疑問や偏見を抱いたり意見を述べたりはしません。その人にはその人のあたり前があり、ぼくにはぼくのあたり前があるだけだから。だけど、自分のあたり前の先で辛くなっているなら、他人のあたり前で考えたらどうなのか?ぼくが毎日辛いながら仕事をしている時、相談した同僚にはよく「そんなことで悩まれたらこっちが焦るし申し訳なくなる。自分はそこまで深く考えていないから、逆にすごい」と言われました。当時のぼくには悪影響でした。何故なら自分のあたり前でしか捉えていなかったから。でも今思えばホントにありがたい助言だったなぁと思います。
特別なことをする必要はない。無理に頑張る必要もない。少しだけ今までの自分のあたり前を改めるだけ。完璧な人間なんていません。人間も壊れる時が多々あります。壊れ方は大小あれど、たとえ壊れたとしても、修復すればいいだけです。うつや双極性障害などの心の病も、ちょっとした故障。じっくり治せばいいんだと思っています。